四條畷とキリスト教


四條畷は河内(大阪東部)で初めてのキリスト教会が建てられた歴史があります

2002年に四條畷市で日本最古のキリシタン墓碑が発見されました。

 

☆関西地域のキリスト教歴史

 

1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に来日しました。1551年にザビエルは日本の布教の許可を得るために、京都に向かいました。鹿児島より航路で大阪の堺の港に上陸して。京都までの陸路を八尾から生駒山を経る高野街道を通りました。この高野街道沿いに四條畷があります。ザビエルは京都に11日間滞在して京都を離れました。

その後ザビエルの意思を継いだ宣教師たちはこの高野街道を通るルートで京都に向いました。

1559年12月14日ポルトガル人宣教師ガスパル=ヴィレラが入京した時に将軍義輝の重臣の三好長慶は、宣教師に好意を示しキリシタン布教を許可しました。

1563年に高山飛騨守(右近の父)、清原枝賢、結城山城守など、いわゆるキリシタン大名と呼ばれる人々が受洗したのをきっかけに現在の関西地区にキリスト教が広がっていきました。

 

キリシタン布教の許可は三好長慶の頭脳と呼ばれるほどの知識人であった結城山城守忠正の力が大きく結城一族からはイエズス会邦人司祭 ディオゴ結城神父殉教者が出ています。

宣教師たちの布教により主だった武士73人が受洗しました。その中に四條畷の地域の城主である結城左衛門尉アントニオ(四條畷市忍ヶ丘)隣の大東の城主である三箇伯耆守頼照サンチョなどがいました。

なかでも、飯盛城下周辺では、1564年には今の四條畷市の砂と岡山に河内で最初のキリスト教会が建てられました。

結城忠正が建てた砂の教会、結城忠正の甥が建てた岡山の教会、そして今の大東市に建てられた三箇教会を拠点としてキリスト教の布教が急速に広がっていきました。

四條畷はそのむかし河内キリシタンの全盛期を築いた場所であり、リバイバルが起こった地であります。

フロイスの書籍によりますと飯盛城の湖畔の砂の寺内という場所にキリスト教会が建てられていたと書かれています。

これが現在の大阪府四條畷砂にあります妙法寺周辺の場所です。

そして妙法寺の隣の場所にはキリシタンの迫害でキリシタンを刑死させた刑死場が存在したと言われています。大きな迫害の中で刑死したキリシタンの霊をまつる小祠堂が今も残っています。

 

キリシタン遺跡と巡礼の旅より

妙法寺(大阪府大阪府四條畷市砂360)の前にて撮影

☆三好長慶と飯盛城跡

飯盛城跡は大阪、奈良の府県境となる生駒山地から西に派生する支脈の飯盛山山頂(標高314m)にあります。

1560年に三好長慶は現在の四條畷市と大東市にまたがる飯盛山の頂上にあった飯盛城に入城しました。

三好長慶は五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)を中心として大きな影響力を持った戦国大名です。

三好長慶が居城とした飯盛城は、南北約650メートル・東西約400メートルの規模を持つ近畿地方では最大級の山城で、もっとも初期に石垣を使い始めた城でした。

飯盛山は大阪平野一円と淡路島、京都盆地がぐるりと視野に入るほど素晴らしい眺望にあります。

三好長慶はこの城を拠点に政治を行ない、飯盛城は当時の日本の中心と言っても過言ではない場所でした。

長慶の許可の元、近畿地方で多くの人々がキリスト教を受け入れました。三箇マンショ、結城ジョアンなど河内キリシタンです。

四條畷の砂や岡山にはキリスト教会が建設され、多くのキリシタンが集まりました。

この山で長慶は眼下に見下ろす近畿の秩序=天下を束ね四国、日本海側や伊勢にも勢力を進出させて多彩な文芸が行われていました。

はるばるヨーロッパより宣教師たちが来日し交流がありました。

飯盛城の周辺には、支城として飯盛城を守るために機能したいくつかの城があります。

田原地域にあった田原城もその一つでした。この時代、砂地域では16世紀に大将軍社が創建され、地域の信仰を集めました。

 

☆四條畷で日本最古のキリシタン墓碑が出土

四條畷市ホームページ文化財、遺跡より

戦国時代に飯盛城で活躍した三好長慶の家臣には、キリスト教の洗礼を受けた人が多く、長慶の死後も河内地方ではキリスト教が栄えました。

四條畷市教育委員会による田原城主の菩提寺である千光寺跡の発掘調査でキリシタン墓碑が見つかりました。

千光寺は田原城の北方400mのところにあり、田原城は三好長慶の飯盛城の東方を守る役割をしていました。

 千光寺は、明治維新のとき廃寺となったため、以後その正確な位置はわからなくなっていました。

1994年に地域の開発計画にともなって、千光寺推定地を含め約四千平方メートルが発掘調査されました。

その結果、歴代の田原城主およびその一族の墓群、さらに千光寺の建物、庭、池、塀、出入口などの存在の痕跡が、きわめて明瞭に浮かび上がってきました。

2002年2月14日に千光寺の土塀の内側の土中から、鮮やかな十字架を刻んだ見事なキリシタン墓碑が出土しました。墓碑は、土中にやや傾いた状態で発見されました。墓碑の下部には、台石に固定するための突起がありましたが、それに適合する台石もなく、また副葬品も遺骨も無く、一枚の墓碑だけ寺の庭の片隅に、孤立して、とても良い保存状態で発見されました。

 本体の長さは突起部分を含めて43.5cm最大幅は26cm、碑面には、上部にH字形を台座にして十字架が刻まれ、中央に「礼幡」、右に「天正九年辛巳」、左に「八月七日」と刻まれていました。

墓碑に刻まれた没年「天正九年」1581年は日本キリシタン墓碑では最古の墓碑になります。

従来発見されたキリシタン墓碑のうちで最古のものされていたのが明治17年頃八尾市西郷墓地で発見された「IHS 天正十年壬午五月二十六日満所 MANTIO」と刻まれた墓碑ですので、四條畷田原で発掘された墓碑が最古のキリシタン墓碑となります。

この墓碑には「礼幡」という人物名があり、当時の宣教師の文書にある田原城主「田原レイマン」のことと考えられ、墓碑の人物と文献の人物が一致する貴重な例です。

日本最古のキリシタン墓碑

(四條畷市歴史民俗資料館にて撮影)

2002年2月14日 日本最古のキリシタンの墓碑発見の写真

写真説明

(四條畷市歴史民俗資料館より)


2002年2月14日

バレンタインデーで雪がちらちらと降る日でした。なにやら墓石のようなものが見えてきました。丁寧に掘り進めるとキリシタン墓碑をしめす十字架が見えてきました。これは大発見です。どきどきしなが作業を見守りました。

 

十字架のついたキリシタン墓碑は千光寺の土塀の内側ぎりぎりのところに埋められていました。

左の落ち込んでいる場所は斜面となっており、寺の外側になります。(墓碑は、境内の中)右側フラットの面が境内です。

 

田原レイマンは天正2年に洗礼を受けました。天正3年、河内の主だった城主とともに京都にいる織田信長に挨拶に行っています。

しかし、織田信長が天正10年に死亡すると、豊臣秀吉、徳川家康によって厳しいキリスト教禁教令を出しました。

レイマンの墓碑は人目を避けて千光寺の墓地から移され、千光寺の隅に隠されていたのです。

この墓碑は平成19年に大阪府指定有形文化財に指定されました。

 

墓碑の全体が掘りあがり、重要な情報が刻まれていました。上に十字架とカトリック教会をしめすIHSのHがデザインされています。その下には没年(日本最古のキリシタン墓碑)、田原城主の洗礼名がわかりました。

右から 

天正九年辛巳(1581年)

礼幡(レイマン)

8月7日